橋本 洋志 学長 式辞
東京都立 産業技術大学院大学を修了される皆さん、修了、誠におめでとうございます。
東京都 公立大学法人の理事長をはじめとした関係の方々,および、本学の教職員ともども皆さんの学位授与を心からお祝い申し上げます。また、皆さんをこれまで、支えてこられた、ご家族や関係者の皆さまに、心からお祝い申し上げます。
皆さんは、修士の専門職学位を授与されました。この価値は、みなさんが、産業技術界で真のプロフェッショナルとして活躍できると期待されることにあります。このプロフェッショナル人材育成のために、本学は、コンピテンシーの向上に主眼を置いた教育プログラムを提供してきました。コンピテンシーとは、業務遂行能力と本学は定義し、その能力指標は、創造力、計画力、実現力など、コースに適合して、多岐にわたります。産技大がコンピテンシーを導入した理由は、IQや学歴と、活躍できる人材のパフォーマンスとは相関が認められなかったという、アメリカ政府のレポートに基づいています。
これより、プロフェッショナル人材の養成の指標として、コンピテンシーが導入されました。
このコンピテンシーを向上させる教育メソッドとして、本学はPBLメソッドを導入しています。
PBLメソッドは、アクティブラーニングを包含したものであり、その指標と方策は産技大 独自のものです。
この運用実績もあり、国内のみならず海外でも高評価を得ているものです。
この産技大のPBLの特徴の一つとして、チームパフォーマンスの向上を指標に入れていることがあげられます。
みなさんは、産技大を修了されて、社会に戻られます。
社会や企業では、個人の能力よりもチームパフォーマンスを重要視することが、多々あります。これは、社会や企業の立場としては、アウトプットを重要視しており、そのために、多くの人員と資金を投入している、すなわち、チームパフォーマンスが重要なのです。
本学が導入しているPBL型科目は、チームを導く能力を評価する項目もあり、みなさんは、産業技術界においてチームを率いる際に、有力な能力を身に付けられたと言えるでしょう。
本学の学びにおいて、これ以外に、ものごとの本質を考える力も身に付けられたことでしょう。
さて、みなさんは、激動する社会に戻られるわけですから、それに耐えうる考え方の一つを、私から老婆心ながらお話をしたいと思います。
質問をいたします。パンダは冬眠するでしょうか? このパンダとは上野動物園にいる、ジャイアントパンダを指します。
なお、ジャイアントパンダは 漢字で 大きな「熊」の猫(大熊猫)と書きます。いかがでしょうか?
いま、私が述べた「熊」という単語に引きつられて、熊は冬眠するから、熊の一種ならば冬眠するかもしれないと思った人が少なからずいると推測されます。
このことは、事実だけを述べていても、人の考えに影響を与えたり、誘導することができるということを示しています。
なお、正解は、ジャイアントパンダは冬眠しません。
次の問いとして、トゥキュディデスの罠(Thucydides Trap)という言葉があります。
この意味は、古代アテナイの歴史家トゥキュディデスにちなむ言葉で、従来の覇権国家と台頭する新興国家が、戦争が不可避な状態にまで衝突する現象を指します。
この用語は、アメリカの政治学者として大変著名なグレアム・アリソンが作った造語です。アリソン氏は、ハーバード大学ケネディ行政大学院の初代院長を務められました。
この大学院は、通称、ケネディスクールという、公共政策分野における最高峰の公共政策大学院の一つであり、この分野、すなわち、政治、公的機関、NPO、NGOでのリーダーを多く輩出しています。
アリソン氏は、その他に、レーガン政権からオバマ政権の歴代国防長官顧問、そして、第一次クリントン政権下では国防次官補を務め、外交問題の解決で活躍されました。
彼の論は歴史の事実に基づくものです。
すなわち、古代ギリシャ当時、海上交易をおさえる経済大国としてアテナイが台頭し、陸上における軍事的覇権を事実上握るスパルタとの間で対立が生じ、長年にわたる戦争(ペロポネソス戦争)が勃発した、という史実を発端としています。
アリソン氏は、過去500年間の覇権争いを調査し、16事例のうち戦争に発展した12例を分析した結果から、新旧大国の衝突から生じる構造的ストレスを「トゥキュディデスの罠」と命名し、この考え方が現代の国際政治における概念として普及しました。
もう一度、トゥキュディデスの罠という言葉が意味することを述べますと、既存の支配的な大国があり、一方、急速に台頭する大国が現れたとき、この両国がライバル関係に発展する際、それぞれの立場を巡って摩擦が起こり、お互いに望まない直接的な抗争に及ぶ現象を表すものです。
現代において、このトゥキュディデスの罠という概念を基に、幾つかの分野の学識者らは、米国と中国の関係に、この考え方をあてはめた議論の展開を行っています。
実際、何人かの人々は、トゥキュディデスの罠という論により、条件に当てはまる大国の衝突はいずれ起こる、ということを信じ、それを他者にも伝えようとしています。
それも、この論を信じ込んだ人は疑いも持たずにいて、善意の気持ちから、懸命に世に警鐘を鳴らそうとします。ですが、それは、誤った方向に人々を誘導するかもしれません。
さて、この話の中に、みなさんを誘導する言葉をちりばめました。まず、偉い人の論である、ということです。そう、権威を振りかざし、この論の正当化を述べようとしています。次に、500年、16例という数字を挙げることで、信憑性を印象付けようとしました。
このように、理論と事実を積み重ねることで、ある一定の人々の考え方に偏った影響を与えることができる、という事例を紹介しました。
もちろん、現代社会では、トゥキュディデスの罠には幾つもの抜けている視点があることが指摘されています。それは、経済相互依存、ロジスティックスネットワークの複雑化、文化や流行の受容性の拡大、そして、情報の高度化などです。
これらをここでは詳しくは説明しませんが、古代から近代までと、現代とで決定的に異なる要素をピックアップすれば、トゥキュディデスの罠が現代社会において、直ちに当てはまるとは言えないであろう、ということが、おのずと明らかになります。
さて、ここまでの話では、嘘またはフェイクは入れていませんでした。それでも、世の人心を分断することができるという可能性を示しました。
このようなことが起きるのは、やはり、人々の価値観が異なることに基づくと言えます。
現代社会では、価値が多様であるということが大事と言われています。大事であればあるほど、異なる価値を主張する人がいるということに繋がります。そして、価値観の異なる人は、我こそは正しいという考えのもと、言葉の修辞法としてのレトリックを駆使して、あたかも、正しいのは自分である、という発言が、今後も途切れることなく沸き起こるものと予想されます。
もちろん、現代社会では、自分一人では生きてゆけませんので、異なる価値観を受け入れざるを得ない場面も多く現れるでしょう。
そのとき、みなさん自身が判断の仕方に迷うことが、今後もきっとあることと思われます。
この複雑な事象に対する判断力は、本学の学びを通して、みなさんは、身に付けていますので、自信を持って、産業技術界で活躍してください、という言葉を改めて、お伝えします。
なぜならば、産技大は、多様性を受け入れている大学院です。
この多様性とは、みなさんの属性に加えて価値観をも含んでいます。
この多様性は他大学にない貴重な環境です。
本学において、みなさんが多様な背景と多様な価値観を持つ学生同士の議論を行い、その中で衝突もあり、そして、共同作業をも実施するという経験を本学で積みました。
まさしく、PBL型演習科目は、その実践が行えるという、貴重な教育プログラムです。
また、みなさんが社会に戻られて、活躍されて、頑張られていても、あるとき、取りあえずの現実の対処に追われて、大きな目標を見失いそうになり、生き方を忘れそうになる時が来るかもしれません。
そうなると、社会で活動することが息苦しくなるものです。
そのようなとき、本学で学んだこと、PBLで議論したことを思い出してください。
そのとき、相手の考え方や価値観はどこにあったのか、自分はどうだったのか。
それぞれの立場に立って、改めて思い返してみてください。
そうすることで、複雑な問題の中に潜む、多様な価値の意味を改めて考え直す「きっかけ」が得られることでしょう。
そうなれば、しめたものです。
本学の学位を有するみなさんは、きっと、より良い道と新しい価値を見出すことでしょう。
最後に、産技大は、社会の変容とニーズに適応できるよう、日々、教育と研究の在り方を探求しています。
そのため、産技大は、産業技術分野のDX型教育やリスキル学習等で,深い学びができる教育を実施し、さらに、多くの外部機関と連携して社会に貢献できる研究を推進する予定です。
そして、修了生や在学生にとっても、また我々教職員にとっても、人々の幸せと、社会の持続的な発展に貢献する、誇りある大学院であるようにいたします。
産技大の一員であるという誇りを胸に、皆さんが大いに活躍することを心から祈念して、私からの祝辞といたします。
令和六年三月十六日
東京都立産業技術大学院大学 学長 橋本洋志