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第113回コラム
地域活性化政策にモノ申す:回顧録その1[学生時代を振り返り]

創造技術専攻 三好 祐輔 教授

 学生時代を飲み物にたとえると、「ファンタ」のようなスカットした味じゃなくて、昭和時代に販売されていた「みかん水」で印象の薄い味だった。高校時代は地方の公立高校の理系クラスで、時間に追われていたことしか思い出せない。セピア色の想い出として、体育祭で、バレーボールの全学年クラス対抗があり、中学時代にエースアタッカーとして一時活躍していた自分が選ばれて、優勝したことぐらい。
 迷彩色のような高校時代を送っていたためか、都会の華やかな生活に憧れて上京した。しかし、憧れていた夢はすぐに打ち砕かれ、長渕剛の「とんぼ」の歌そのものだった。講義室は男子学生ばかりが目立っていたが、大学へは毎日通った。雑誌で取り上げられていたキャンパスライフで紹介されていたような女子大生と出会うことは少なかった。バラ色のような大学生活を送れそうになかったが、毎日大学に通っていたためか、授業を真面目に受けるという習慣が身についていた。講義の内容に興味があったからではない。気の合う友達がたくさんできたから。夏は早朝からテニスに水泳を、冬はスキーに行き、帰りは温泉を楽しみ、学生時代にしかできない全てのスポーツをひととおりやってきた。こんな生活を送るなら、わざわざ都会の大学に行かなくても良かったのではと言われるかもしれない。しかし、学生時代を一緒に過ごせた能力の高い友達と出会うことができたことが、『井の中の蛙』で終わらなく、大きく成長できたと感謝している。自分が過ごした学生時代は、バブル崩壊後の「失われた20年」と言われ、景気が非常に悪く日本経済は低迷していた。そのため、地方出身の大学生が、都市部で就職をせずに地元に帰ることも珍しくなかった。近年、地域活性化という名目で、地方出身者には地元の大学への進学を奨める昨今の政策は必ずしも良いとは思えない。都会の大学に進学して地元に戻ることは、都会で揉まれて労働生産性が高まった人材を地域に派遣(還元)できるというプラスの側面があるからである。
 講義の内容を完全に理解してなくても、単位をそれなりに取れることを、悪友達から学んだ。当時、大学では成績の順位で進路先が決まるという噂が流れていた。奨学金を得られるということも知っていたので、試験の時は図書館に通って頑張った。実際、成績も悪くはなかった。自分より席次の上の数人は、京大、阪大に就職が決まった。一方自分は、任期無しとはいえ、地方の国立大学への赴任が決まり、ショックだった。指導教官に、「就職先として、佐賀大学は三好君にとってベストの大学ではないが、業績をあげて異動できるように励みなさい」と餞別の言葉をもらった。九州の大宰府に都落ちした悲運の公家に自分をなぞらえたものである。
 3月末、桜が咲き始めた九州に着任した。移動中の車窓から見えた風景は見渡す限りほとんど山と田んぼだった。佐賀駅を降りると、西友と銀行を目にしてほっとした(まさか11年も佐賀でいることになるなんて、思いもしなかった)。郷里の香川だって田舎じゃないかと言われるかもしれないが、博多から電車で一時間半先の佐賀は、「はなわ」が歌っていた「佐賀県」そのものだった。楽しい生活が送れるなんて思えなかった。県庁に勤めている大学時代の旧友と月に一度くらいは飲みに行けるのが楽しみぐらいだった。
 新学期も始まり、新任の教員が担当する外書購読のオリエンテーションのため、久々に大学に行った。大学の経済学部棟に入ると、待ち構えていたようにたくさんの女子大生に囲まれ、(今ではオジサンになって、想像することは難しいけれども)、ニコニコ微笑み、珍しいものを見るかのように騒がれ、授業の内容を含め甲高い声でいろいろ質問をされた。自分は男兄弟の家庭で育ち、学生時代は男子学生が周りに多かったため、地方大学の経済学部には、女子大生がこんなにもいるのかとカルチャーショックを受けた。当時の女子大生も今は40歳近くになっている。

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