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第14回コラム
「インダストリアルデザインの誕生」

創造技術専攻教授 國澤好衛

 自動車、家電製品、情報機器、あるいは家具や住宅設備、生活用品など、さらには産業用の機器や業務用機器など、こうした工業製品全般のものづくりに関与するデザイン領域をインダストリアルデザインという。

 我が国においてこの言葉が定着するのは、1950年代以降、大手製造業の経営者がデザインの重要性を認識し、こぞって企業内にデザイン部門を設立 (※1)したことや、52年に日本インダストリアルデザイナー協会(※2)が設立され、インダストリアルデザインの役割や職能が理解されるようになったこと、また51年に来日した当時売れっ子のインダストリアルデザイナー、レイモンド・ローウィ(※3)が専売公社の依頼でピース(タバコ)のパッケージデザインを手がけ、その売り上げが3倍以上に伸びてデザインの重要性が広く喧伝されたことなどによるものとされている。

 ところが、1953年の工芸ニュース(※4)Vol.21-1に掲載された「日本のインダストリアルデザインの歩み」という論説の中で著者の豊口克平氏(※5)は、「インダストリアルデザインという字句が既に50年前の東京高等工業学校(※6)の英文紹介パンフレットの中に、その教科内容として記述されているのを発見して今更ながら驚いている。」と記している。この論説は1953年の掲載であるから、1900年の初めごろということになる。ちなみに、当時の欧州のデザイン状況はといえば、アールヌーヴォーという植物などをモチーフにした有機的な曲線で構成された新装飾様式の時代であり、モダンデザインの系譜となるドイツ工作連盟(※7)(1907年)やバウハウス(※8)(1919年)などは影も形もないのである。また、米国においてインダストリアルデザイナーが活躍し始める20年も前のことになる。

 さらに続けて同氏はその論説の中で「明治の開國と共に日本の商工業の発達には目覚しいものがあり、特に意匠家を要求するものに商業宣伝用の印刷物、繊維工業の染織製品があげられるがまずこの種の意匠家は旧来の日本画、洋画家の副業的技術として登場したのであって、その他の家具、機械器具、日用雑貨、新式の工芸品等は凡て海外舶来の模倣で日本人の生活には遊離していて、むしろ今日考えると滑稽を極めたものであった・・・・・奢侈(しゃし)品に重きをおき、工芸美術品の製作に偏して普通実用品の美化を計る上に、深く注意をしなかったのは大きな誤りで・・・・・特に意匠の重要性が教育、営業方面に力説されだして来た時代」とも記しているが、このことは欧州諸国が自国の製品の競争力を向上させるために実用品の形態的、美的革命に通じる思潮とその実践としてのデザイン開発に注力しはじめたことを、我が国においても充分理解しインダストリアルデザイナーの育成を本格化させていたことを物語っている。

 ところで、当時の形態的、美的革命は、その後確立するモダンデザイン思想に集約されることになる。それは、当時の工業社会が求めた産業革命以降の近代合理主義の規格化や標準化といったコンテクスト(文脈)を背景に、合理的な審美性に関心をおきつつ、「かたちを操作」する行為である。そこでは、主に物理的な機能を満たすモノを如何に合理的に効率的に、つまり形態的にはできるだけ単純で製造しやすいミニマル(最小限の造形要素でデザインすること)な形態言語を採用することが焦点になっていた。

 やがて、我が国においてもこのモダンデザインの思潮の実践がインダストリアルデザイナーの初期の、特に大正期から昭和初期にかけての役割となるのである。


 ※1 1951年、松下電器産業に製品意匠課が設置されたのが、日本初の企業内デザイン組織といわれる。松下幸之助が51年の米国視察の際に、メーシー百貨店でデザイン(外観意匠)の違いだけで10ドル近くも高く売られているラジオをみて、これからの企業経営にデザインが重要であることを直感的に理解し、帰国後すぐに同組織を創ったといわれる。ほぼ同時期に他の企業も同様の組織を設置している。

 ※2 1952年設立、1969年に社団法人(経済産業省所管)となる。わが国唯一のインダストリアルデザイナーの職能団体で、インダストリアルデザインに関する普及啓発、調査研究などを行い、インダストリアルデザインと生活文化の向上、産業の健全な発展に寄与することを目的としている。

 ※3 レイモンド・ローウィ:1893年仏生まれ、第一次大戦後渡米し、百貨店の装飾やイラストレーションの仕事をきっかけにデザイン業を始め、その後工業製品のデザインやパッケージデザインなどを数多く手がけたインダストリアルデザイナーの草分け的存在。彼がデザインすると売り上げがあがると評判になり、インダストリアルデザイナーという職能がアメリカに根付いたともいわれる。

 ※4 国立の研究機関による工芸(デザイン)情報の提供を目的に、当時の商工省工芸指導所(昭和3年3月設立)より、1932年(昭和7年6月)第1巻が発行された。戦時下に空白期があるものの、42年間にわたり、工芸デザイン関係者の貴重な情報源として親しまれてきた。1974年7月、41巻第3・4号をもって休刊。

 ※5 豊口克平:1905年生(秋田県)、東京高等工芸学校工芸図案科卒(1928)、「形而工房」を結成、商工省工芸指導所にて椅子の座面の快適性に関する研究などを推進。1958年 日本航空DC-8アートディレクター(1958)、豊口デザイン研究所を設立(1959)、武蔵野美術大学工芸工業デザイン学科主任教授(1960)、大阪万博ディスプレイ顧問(1969)など。勲三等瑞宝章、第3回国井喜太郎特別賞、第1回デザイン功労者賞など受賞、1991.7.18日逝去。

 ※6 東京高等工業学校は、現在の東京工業大学にあたり、東京工業大学60年史によれば、前身の東京工業学校時代の1899年(明治32年)に「工業図案科」を設けている。この科の目的は、「普通商品に応用すべき工業図案の研究で普通実用品の美化を計るを目的とする」とされ、まさにインダストリアルデザインに関する初期の教育目標を実践していたといえる。

 ※7 1907年、ミュンヘンで、産業家、建築家、デザイナー、評論家たちによって組織された団体。標準化、規格化に基づく大量生産によるものづくりを提唱。活動の中心的となったヘルマン・ムテジウス(Hermann Muthesius:1861~1927)は、ドイツの製品の量的・質的向上を実現するために「規格化」を推し進めるべきであると主張。14年にはケルンで最初の展覧会を開催。バウハウスの初代校長ウオルター・グロピウス(Walter Gropius 1883-1969)、ブルーノ・タウト(Bruno Taut 1880-1937)、ウィーン・ゼツェッションで活躍したヨセフ・ホフマン(Josef Hoffmann 1870-1956)などの作品が出展された。

 ※8 1919年、ワイマール(ドイツ)に設立された美術、工芸、デザイン、建築などに関する総合的な教育機関。機能主義に基づくモダンデザイン思想(産業革命以降の合理主義を背景にしたデザイン、造詣の考え方)を発展させ、日常生活における形態的、美的革命により、産業革命の成果を質的側面で完成させることに貢献した。

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