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第71回コラム
製品意味論(Product Semantics)から意味論的転回(Semantic Turn)へ

創造技術専攻 國澤 好衛専攻長

 1980年代にデザイン界で注目を集めたプロダクトセマンティクス(Product Semantics:製品意味論)に関する理論と実践は、20世紀初頭に開花したモダンデザインに替わる新たなデザイン理論を体系化する試みだった。
 確か、1984年のことだったと思うが、インダストリアルデザイン誌(注1)の編集会議の席で、編集委員の一人が持参したアメリカからやってきたという一枚の写真に衝撃を覚えたのを思い出す。その写真は、クランブルックアカデミーの学生が制作したデザイン作品だったのだが、それがプロダクトセマンティクスとのはじめての出会いだった。
 その後、インダストリアルデザイン誌でプロダクトセマンティクスの特集を組むことになるが、この新たなデザイン理論と実践は、同時期のメンフィスの活躍などとともにポストモダンムーブメントとして注目されることになる。
 私はといえば、ちょうどその頃、既に形式化してしまったモダンデザインのコードを新たなデザインコードに書き替えようと、C.S.パースの3項理論(注2) とレトリックに着目して実験デザイン「やわらかな抽象」(注3) に取り組んでいた。合目的的な設計に専念し、幾何学的で単純な形式にこだわるデザインを、かつまたユーザーに響く美的形式とは乖離したデザインを、ユーザー世界に引き戻すことを同じように目指していたのである。
 ここで、プロダクトセマンティクスが登場した背景についてもう少しふれてみたい。
 産業革命以降、工場制機械工業の進展により大量の普及実用品が供給されることになるが、その多くは以前の丹念に手作りされた品物に比べるとずいぶんと粗悪なものだった。合理的で機能的なものづくりは洗練されていったものの、審美的な観点からはまだまだ完成度は低かったのだろう。
 そこに、機能性と審美性を保証し完成度の高いものづくりの理念として登場したのが、ドイツ工作連盟やバウハウスでの議論が生んだデザイン運動、いわゆるモダンデザインである。それは、機能主義(functionalism)に根ざしたデザイン理念であり、新たな美的形式(デザインコード)を伴うものであった。
 しかし、モダンデザインは、徐々にユーザーの価値観とは別のところで機能主義思想の実現という合目的的な設計に専念することになる。デザイナーには自由な選択の機会が与えられていたにもかかわらず、ストイックで排他的な形式を採用することに終始した。
 さらに、その後の技術革新は対象となる製品の構成要素を電子化されたモジュールに替え、デザインが拠り所としたカタチの源を喪失させた。そのことも、モダンデザインが多用した幾何学的で単純な形式だけがコードとして残る要因となった。
 一方で、現実の世界では、それとは逆にリバイバルスタイルや装飾的な形式を多用した刺激的なデザイン、趣味性だけを追求したデザインがもてはやされるようになっていく。
 そして遂に、モダンデザインは色褪せたものとなってしまった。
 そんな時期に製品意味論は登場する。
 製品意味論は、記号論や意味論のフレームワークを利用して、デザインの理論をユーザー世界に引き戻すことを試みたものである。
 主としてその理論では、設計思想の中心に意味を据え、造り手と使い手が互いに共鳴できる審美的な形式を導き出すプログラムであった。
その初期の実験的取り組みは、いささか子供染みた意味の形式化だったかもしれないが、製品の技術や機能、役割を形態で解説するという考えは、デザインの非言語形式を利用してユーザーとのコミュニケーションを設計するもので十分刺激的なものであった。
 当時、この意味論的アプローチに積極的に取り組んだクラウスクリッペンドルフは、ウルム造形大学に在学当時からデザインと意味論との関係について関心を持ち続け、製品意味論を発展させ、2006年に「Semantic Turn(意味論的転回)」を上梓する。
 彼は、この本で、『この情報豊富で、すばやく変化する、そしてますます個人主義的な文化においては、現代のデザインディスコースはもはや説得力をもたない。かくして、工業デザインは一つの決定的な転換点に立たされていることがわかる。』『意味がわかるように人工物をデザインすること、物としての意味と社会的意義をもつようにデザインすることは、実際、由来であるラテン語「design」の失われた意味に立ち戻るのだが、デザインの実践に過激なシフトを必要とする。それは、意味の考察への転回、つまり「意味論的転回(セマンティックターン)」である。』と述べている。
 そして、『Design is Making Sense of Things.(デザインとは物の意味を与えることである)』を主張の中心に据え、『デザインは自らを現代社会の構造の中に位置づけ直すべきだ』としている。
クラウスクリッペンドルフは、デザインを記号論というより意味論に強く傾斜して議論している。その点に違和感を唱える向きがなくはないが、新たなデザインディスコースの提起として極めて啓発的なものである。
 ところで、この意味の問題に立ち戻ることの重要性に同意しても、実際にどのように意味を表象化するのかというデザイン言語の操作の問題については依然不透明である。本来、意味を忠実に表象化しようとすれば、ときには独特のデザイン表現が求められることになるのだが、レトリックにおけるフィギュール(注4) の如く表現形式を規定する公式はどこにも存在しない。
「レトリック感覚」 (注5)の中で佐藤氏は、『言語表現の世界ではしばしば文法という規則体系をひやかすかのように働くレトリック だが、はっきりした文法的規則をもたない言語以外の記号表現の世界では逆に、文法にかかわるべき暗黙の規則体系として働いているものこそじつはレトリックのメカニズムなのだと、私は予感ないし妄想しているのだ。』と述べている。
実は、デザインにおけるフィギュールの研究が重要なテーマとして残されているのだ。


(注1) (公社)日本インダストリアルデザイナー協会機関紙。現在は休刊中
(注2)記号と対象との関係をicon, index, symbolの3つに分類
(注3)この実験デザインは「やわらかな抽象」と題し、その一部は、インダストリアルデザイン139+140合併号、デザイン学研究No.62, 1987などに発表されている
(注4)フランス語のフィギュールは姿のことで、英語ではフィギュア、レトリックの中心がフィギュールの体系、フィギュールは日本語で「あや」(文・彩・綾)。
(注5)元国学院大学教授の佐藤信夫(1993年没)著、講談社文庫、1992年

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