English

第136回コラム「1940年体制」と産技大

2021年11月5日

板倉 宏昭 教授

 近年の日本経営システムに関する有力な見方として、「1940年体制論」(野口、1995;Noguchi,1998;榊原・野口、1977、板倉、2017)がある。本稿では、産技大の存在自体にも影響する研究・教育体制についても「1940年体制論」が成立することを述べたい。

1940年体制論

 1940年体制論は、戦後の日本経済の多くの仕組みは、1940年ころに総力戦としての太平洋戦争を遂行するため導入された戦時体制が戦後改革の中でも生き残ったという主張である。戦時期に、国家資源の総動員のための計画経済とそれを実行する統制経済のために、システム・ワイドな改革が行われたという事情に、日本の経営システムは、大きく依存している(奥野、1993、 p.275)という主張である。

 戦時体制が契機となって、従業員中心の組織、終身雇用制、年功的賃金といった日本型のコーポレート・ガバナンスが形成された。さらに、1940年体制論は、間接金融の他、源泉徴収制度など財政制度など経済全体のシステムを含めた概念である。次節では、鮫津キャンパスの研究・教育体制についても、1940年体制論が適用可能であることを示したい。

1940年体制と鮫洲キャンパス

 1940(昭和15)年1月に我が国最初の公立高等工業学校として、「府立高等工業学校」(略称:府立高工)が東京市品川区鮫洲町237番地 (現在の東大井1-10-40)に認可され、1940(昭和15)年4月に開校した。修業年限は3年で、電気工学科と機械工学科の2学科で出発した。

 なお、「府立高等工業学校」の校名は、1943(昭和18年)年7月1日、東京都制施行により、「東京都立高等工業学校」、翌1944年(昭和19年)年4月1日には、文部省の指示により、国立と歩調を合わせて、「都立工業専門学校」と改称された。

 戦後の学制改革により、1949(昭和24)年に、「都立工業専門学校」が母体となり、「東京都立大学工学部」が鮫津キャンパスに設置された。東京都立大学工学部の学生は、2年間は目黒キャンパスで教養課程を履修し、3年生、4年生、大学院生が鮫洲キャンパスで学んだ。「府立高等工業学校」の初代校長は、元神戸高等工業学校(新制神戸大学工学部の前身)教授の清家正であり、東京都立大学初代工学部長となった。隣接する車両検査場の場内放送での講義中断や、海沿いにあったことから1949(昭和24)年に台風による波浪で、併設された寮が損壊するなど問題もあり、1961(昭和36)年12月に、深沢キャンパスへと移転することになった。その後、南大沢に移転して、2005(平成17)年首都大学東京が設置された。

 大学院レベルでの教育研究が鮫津の地で再び行われるようになったのは、2006 (平成 18) 年4 月に開学した産業技術大学院大学となる。

1940年体制と産技大

 わが国の工学教育は、東京大学工学部の前身である工部大学校が設立されるなど、戦時体制以前から重視されてきたが、1940年体制下で、一層強化された。総力戦として、技術者を養成する必要性があったためである。1930年と1946年を比べると、工業専門学校は、21校から32校に、1939年に7校が設置され、以降高商からの転換を含め戦時中に4校が設置された(天野、1986, p.108)。

 時代の制約を受けて、その施設や設備や人材は必ずしも十分ではなく、困難な状況で教育に当たらざるを得なかった。しかし、戦後の高度成長期には、戦時体制下で設立された工学教育が産業振興に貢献することになる。

1940年体制は、現在の我が国の教育研究に大きく影響している。例えば、官立の高等商業学校は、13校に留まり、一部は、戦時中に、文部省から工業経営専門学校への転換を命じられた。現在でも国立大学の法学部が15校、経済学部が23校であるのに対して、工学部は、56校に上る。社会科学が抑制的で工学部が多い構造は、1940年体制下で生まれたのである。

 歴史の研究にとって「if」は禁物であるといわれるが、「もし、太平洋戦争や1940年体制がなく、高工の拡大策がなかったら」、東京都立大学に工学部はなかったし、産技大も存在しなかったであろう。

 1940年体制論の主張は、現代の我が国の経営システムは、日本固有の文化を背景とした固定的で不変なものではなく、変更可能であるという点である。研究教育も産業構造の変化に対応しなければならない。日本で経営学というと文系と思われているが、米国マサチューセッツ工科大学(MIT)等では、経営学の研究と工学の研究の連携が当然のように行われている。

 産技大は、1940年体制からの経緯とした恵まれた工学系教員の定員を活かして、産業構造の変化に対応している。文部科学省は、既設校をモデルに同型繁殖的な増設方策、横並び的な政策を採る傾向にあるために、例えば、ファイナンスや電子商取引など工学と経営の連携が必要な先端的な分野についての研究・教育体制が、立ち遅れてしまいがちである。産技大をモデルとするような工学分野と経営学分野の連携が一層求められているわけである。

(注)鮫津の地には、新制の鮫洲高等学校(1949-1957まで都立大附属校)、1962(昭和37)年には、新制の東京都立工業高等専門学校(現在の東京都立産業技術高等専門学校)が設立された。旧制の専門学校と新制の専門学校は、名称からして混同しがちであるが、異なることには注意が必要である。

参考文献

天野郁夫(1986)、『高等教育の日本的構造』、玉川大学出版部

板倉宏昭(2017)『新訂経営学講義』勁草書房

野口悠紀雄(1995)、『1940年体制』、東洋経済新報社

Noguchi Yukio(1998)、“The 1940 System :Japan Still under the Wartime Economy”, American Economic Review, May 1998

奥野正寛(1993)、「現代日本の経済システム:その構造と変革の可能性」『現代日本経済システムの源流』日本経済新聞社、pp.273-291

榊原英資・野口悠紀雄(1977)、「大蔵省・日銀王国の分析-総力戦経済体制の終焉-」、『中央公論』、1977年8月号

PAGE TOP