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教員連載コラム

不確かな未来との対話

  • 58回コラム

    自分創り50年目

    創造技術専攻 教授 村越英樹

 私は1962年11月18日に生まれた。現在、50年目を生きている。村越英樹という人間を創り続けて半世紀なんだなぁ。。。と思いつつ、今回のコラムでは、この半世紀を振り返ってみたい。

 最も古い記憶は、オート三輪を転ばせた記憶である。幼稚園入園前のことであるが、突然道路(砂利道)に飛び出した私に驚き、オート三輪の運転手が急ブレーキをかけたため、バランスを崩して転倒し、上下逆さまになった。周りの大人たちが、逆さまになったオート三輪を元に戻していたようであるが、正確には覚えていない。

 幼少期から小学校低学年までは、とにかく落ち着きのないガキだった。虫や小動物に興味を持ち、毎日暗くなるまで走り回り、虫捕りやザリガニ釣りなどに没頭していた。夏休みの自由課題は、昆虫の標本。カブトムシやノコギリクワガタなどがメインキャストだった。ある年、石神井公園ボート池で魚等を網でさらっていたとき、大きなスズメバチが飛んできたので、持っていた網を振り回したら、たまたま当たってスズメバチが池に落ちた。水ごとビニール袋に入れて持ち帰り、その年はスズメバチがメインキャストとなった。この頃、野山を走り回っていたことで、基本的な身のこなし方が身に着いたと思う。

 小学校高学年になると、リトルリーグに入団して野球を始め、中学3年まで野球に没頭した(中学1年後半~3年はシニアリーグ)。野球を始めた当初は、体が大きい方ではなく、非力だったため、なかなか試合に出られなかった。試合に出るためには、とにかく練習あるのみと考え、ランニングや素振りなど毎日努力を続けた。また、練習日には休むことなく出席したこともあり、リトルリーグでは、7番レフトでレギュラーとなることができた。チームも関東大会を勝ち上がり、神宮球場での全国大会に進んだ。シニアリーグに進級しても努力を続けた結果、三塁手中軸打者になることができた。チームの成績は、関東大会3位、全国大会1回戦負けという結果だった。しかし、残念なのは、毎年シーズン終了時にチーム内で表彰を行うのだが、努力賞を3度もらったが優秀選手には選ばれなかったことである。この頃、自分で正しいと思ったことを努力すれば結果が付いてくるということを学んだ。それと同時に、努力することは重要であるが、努力していることが見えすぎてもいけないことを自覚した。

 中学時代、野球に没頭して、勉強していないこともあり、学業成績は今一つ。高校受験に失敗し、希望とは異なる高校に進学して、なんとなく暗い高校時代を過ごすことになる。高校受験の失敗は、かなり悔しかったようで、それまで好きでなかった勉強を、大学受験のためにひそかにやり始める。その結果、某国立大学の工学部へ入学することとなる。ここで分かったことは、自分は悔しいと思うことで、行動を開始するということだ。
高校時代に勉強をしたと記載したが、誤解を招かぬよう、一般的にいわれているような優等生になったわけではないというエピソードを紹介しよう。高校1年の担任からホームルームの時間に、自分の学力を知るために夏休み期間中に実施される全国模試を受けるよう促された。高校入学時から大学進学志望であると伝えていた私が指名され、「村越君は受けますよね」と問われたので、「高校に入学して4カ月、今の学力を知ったところで何の役にも立たないので、受験しません」と回答しました。その結果、私のクラスの受験率は、8クラス中最低となり、その原因が私の発言にあるということで、母が呼び出されて説教されたそうです。高校の先生方にとっては、かなりの変わり者で扱いにくい生徒であると思われたに違いない。

 希望の大学に入学したが、高校までと同様に、講義を受けて単位を取るという受け身の状態で、あまり充実感はなかった。また、野球部、スキー部、ESSなどのクラブ活動にも参加したが、どれも中途半端になってしまった。そんな時、他大学の友人からMP(Model Production、東京学生英語劇連盟東京)という楽しいものがあると聞き、早速オーディションを受ける。何も分からず受けたオーディションだったが、なぜか合格してMP82の舞台に立つことになる。もちろん、とりあえず舞台上にいるという程度の端役ではあったが、やってみるととても楽しい。特に自分でない役を演じることで、不思議な感覚を味わうことができた。何が不思議かって、役作りをすることによって、日常生活している自分自身、すなわち村越英樹が見えてくるのだ。この時初めて、村越英樹というイメージを自分の中で創造し、村越英樹を演じているということに気付いた。そして、その時点で現実ではない自分自身のイメージを創造して、演じていくことが村越英樹を創ることだと認識した。

 一方、大学生活は4年生になり、研究室に配属された。徐々にではあるが、3年生までの受け身だった学習から、能動的に研究活動をできるようになってきた。大学院では、ペトリネットを利用した並列処理計算機の制御という研究課題に取り組んだ。自分の考え通りに発想して、その時点でないものを創造していくことは、とても楽しい。そこで、大学教員というイメージ(役割)を自分自身に与え、村越英樹を創っていくことに決めた。

 1991年に大学教員(東京都立科学技術大学)になり、学生と共に現存しないものを創造し、提案してきた。ペトリネットを利用したコントローラ、ニューラルネットを利用した論理演算機構、回路実験のための遠隔教育システム、運動学習のためのe-Learningシステムなどである。2008年には現職に移り、感性と機能の統合という専攻のテーマのもとで、PBLを実施している。これまでに取り上げたテーマは、「癒し」、「豊かさ」、「達成感」を感じることができるコンピュータ応用システムである。機能を実現するだけでなく、そのものを使うとなんとなく「癒される」とか「豊かさを感じる」というような商品開発に役立てたいと考えてはいるのだが、なかなかうまくいかないのが現状である。

 村越英樹という人間を創り始めて50年目に入っているわけだが、未だに完成せず苦しんでいる。はたして完成する日は来るのだろうか?


ちょっと ブレイク

最近、自分で撮影した写真に、タイトルを付けて楽しんでいる。こんな、くだらないことだが、なぜか楽しい。年を取って、ちょっと壊れたのでしょうか

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